「ピアノを習っていて良かったことは何ですか?」
そう聞かれたとき、真っ先に思い浮かぶのは、指が速く動くことでも、難しい曲を暗譜していることでもありません。
4歳からピアノという楽器と共に歩んできた私にとって、ピアノは単なる音楽の道具ではなく、自分自身の「価値観」や「人間性」を形作る修練の場でした。
幼すぎて始めた当初の記憶はありませんが、振り返れば、ピアノを通して得た集中力や精神の安定、確かな思考力、そして豊かな感性は、私の人生において欠かせない財産となっています。
今回は、ピアノという鏡を通して磨かれた「集中力、胆力、思考力、感性」……その本質についてお話ししたいと思います。
集中力という名の、演奏の生命線

ピアノの演奏において、集中力が途切れることは「死」を意味します。たった一瞬の心の揺らぎが、音の濁りやミスタッチ、あるいは音楽全体の流れを止めてしまうからです。
数分、時には数十分にも及ぶ大曲をノーミスで、かつ感情を込めて弾き切るためには、
凄まじい密度の集中力が求められます。
この「長時間、極限まで意識を研ぎ澄ませる」という経験は、ピアノ以外の場面でも大きな力となりました。
同じく集中力を鍛えられた読書

例えば、読書もその一つです。本の世界に深く潜り込み、著者の思考を追う力は、ピアノで培った集中力と密接に関係していると感じます。
物事の核心を捉えるまで粘り強く取り組む姿勢。それは、一つのフレーズが納得いくまで何百回と繰り返した、あの練習の日々が授けてくれたものです。
精神の安定は「鍛えて」手に入れるもの

よく「落ち着いているね」と言われることがありますが、私はもともと穏やかな性質だったわけではありません。
むしろ、本番という極限状態の中で、いかに自分をコントロールし、安定した演奏を届けるかを突き詰めた結果、後天的に手に入れたものです。
転機は、とある本との出会い

大きな転機となったのは、スポーツドクターの辻秀一さんによって書かれた『演奏者勝利学』という本との出会いでした。
そこには、本番の数分間のために、日常の些細な行動から変えていく重要性が説かれていました。
ステージの上だけで良い格好をしようとしても、普段の生活の乱れや心の隙は必ず音に現れます。
私は、普段の立ち振る舞いや思考の癖から見直すことにしました。
どんな状況でも揺るぎない自分でいられるよう、精神を「鍛える」意識を持ったのです。
その結果、同級生からは「同じ歳に思えない」と言われるほどの落ち着きが身についていました。
これは単なる大人びた態度ではなく、土壇場で自分を信じ切るための「胆力」が備わった証だと思っています。
思考力という、上達の羅針盤

「どうして楽譜にこう書かれているんだろう?」
「作曲家はどんな思いでこの曲を書いたのかな?」
演奏において、ただ指を動かすだけでなく、作品に疑問を持つことは非常に大切です。もっと言えば、「思考力がないと、ピアノは弾けない」と私は考えています。
例えば、練習がうまくいかない時。「ダメだ」と落ち込むのではなく、「どうしてうまくいかなかったのだろう?」と冷静に原因を分析できるかどうかが、上達の分かれ道になります。
私はこの「思考力」や「問いを立てる力」を高めるために、大学時代にこんなこともしました。
大学時代に受講した「質問力を磨く」
上智大学との単位交換制度を利用して、読売新聞社連携の「質問力を磨く」という講座を1年間受講したのです。
新聞記事を読みながら疑問(質問)を書き出していく訓練は、対象が「文章」か「音」かという違いだけで、楽譜を読み解く作業と本質は全く同じでした。
ピアノを上達させるために、あえて「問い方」を学びに行く。
そこで得た思考のプロセスは、今も私の演奏を支える大きな武器になっています。
感性は、上手くなるために「自ら磨く」もの

音楽において「感性が豊か」という言葉は、しばしば生まれ持った才能のように扱われます。
しかし、私の実感は少し違います。感性は、ピアノが上手くなるために、戦略的に、そして泥臭く磨き上げてきたものです。
楽譜に書かれた音符の行間を読むためには、自分の中に豊かな感情の引き出しがなければなりません。
感性を磨くために実際に行ったこと
「今、自分の心は何を感じているのか?」
それを丁寧に言語化することから始めました。
また、優れた美術作品に触れて色彩感覚を養い、身近な自然の美しさに目を向けて、風の音や光の移ろいを心に刻みました。
これらはすべて、ピアノの表現力を高めるために必要だったからです。
美しいものを見て感動する心は、決して自然に育ったものではなく、自ら世界をどう見るかという「意志」によって私は育んできました。
ピアノが教えてくれた「人間力」の本質
ピアノを続けてきた道のりは、一見すると音楽という狭い世界の中での出来事に見えるかもしれません。しかし、そこで培われたものは、集中力、胆力、思考力、そして感性といった、生きていく上での根幹となる「人間力」そのものでした。
一つのことに粘り強く取り組み、壁にぶつかっても解決策を考え抜き、本番の重圧を乗り越える。そして、世界を美しく捉えようとする心。
これらは、ピアノという楽器を離れたとしても、私の人生を支え続けてくれる普遍的な力です。
ピアノを始めて変わった価値観。
それは、「自分を磨くことは、世界をより深く、より豊かに味わうことである」という確信です。
音楽と向き合うことは、自分自身と向き合うこと。
もし今、ピアノに向かっていて「これに何の意味があるのだろう」と迷うことがあったとしても、安心してください。
あなたが鍵盤に触れている時間は、音を出す技術以上に、
あなたという人間そのものを、強く、美しく作り上げていると、私は信じています。

