前回の記事で、松伏町の「田園ホール・エローラ」で聴いた、魔法のような「スペイン風のワルツ」について書きました。
豊かな残響は、ピアノの音を何倍にも美しくしてくれます。
しかし、実際に自分がステージに立って演奏する側になると、この「響きの良さ」が、時に演奏者を苦しめる「魔物」になることをご存知でしょうか?
「家の狭い防音室では上手に弾けていたのに、本番では何を弾いているのか分からなくなってしまった」
もしあなたがそんな経験をしたことがあるなら、それは技術不足のせいではなく、「ホールの響きに合わせた調整(アジャスト)」が上手くいっていなかっただけかもしれません。
今回は、響きの良いホールで演奏する際に気をつけたいポイントを、私の失敗談や経験を交えて分析してみたいと思います。
1. そのテンポ、速すぎませんか?「残響」の罠
響きの良いホール(特にエローラのような残響1.9秒クラスのホール)では、出した音が消えるまでに時間がかかります。
前の音が空中に残っている状態で、次の音を素早く重ねてしまうとどうなるか。
お風呂場で早口言葉を言っているような状態になり、音が混ざり合って、客席には「モゴモゴしていて何を弾いているのか分からない」という印象を与えてしまいます。
自分の耳よりも「客席」を想像する
狭い練習室(デッドな響き)での練習に慣れていると、私たちは無意識に「音の隙間」を埋めようとしてしまいます。音がすぐに消えてしまうのが不安で、ついついテンポを上げてしまいがちです。
しかし、ホールでは逆です。
「音が空間に広がるのを待つ」くらいのゆとりが必要です。
特に速いパッセージや、和音が連続する場面では、練習室の感覚よりもほんの少しテンポを落ち着かせる勇気が必要です。
「少し遅いかな?」と感じるくらいで、客席にはちょうど良く、格調高く届くことが多いのです。
2. 鍵盤の「底」まで届けるタッチ
次に重要なのが「タッチ(打鍵)」です。
響くホールだからといって、表面を撫でるような軽いタッチで弾いてしまうと、音の芯(コア)がぼやけてしまいます。
残響成分ばかりが客席に届き、メロディの輪郭が見えなくなってしまうのです。
遠くまで飛ばすイメージ
もちろん、ドビュッシーのような作品で霞がかった音色が必要な場合は別ですが、基本的には「鍵盤の底までしっかりと指を届ける」意識が大切です。
これは「大きな音を出す」という意味ではありません。
ピアニッシモ(弱音)であっても、指先から鍵盤の底を通って、ピアノの脚、そしてステージの床へと振動を伝えるような、深いタッチが必要です。
明瞭なタッチで発音された音は、豊かな残響の中でも埋もれることなく、客席の一番後ろの人までクリアに届きます。
3. ペダルは「耳」で踏むもの
そして、最も調整が難しいのが「ペダル」です。
普段の練習で「ここで踏んで、ここで離す」というのを、足の筋肉で覚えてしまっていませんか?
もしそうなら、響きの良いホールでは危険信号です。
練習室と同じ深さ、同じ長さでペダルを踏み続けると、ホールでは音が濁りすぎてしまいます。ホールの残響自体が「天然のペダル」の役割を果たしてくれるため、足元のペダルは「引き算」で考える必要があります。
- いつもより踏む深さを浅くする(ハーフペダルを活用する)
- いつもより頻繁に踏み変えて、音を濁らせない
- あえてペダルを踏まない箇所を作る
これらを判断するのは、あなたの「耳」しかありません。
最大の敵は「焦り」による聴覚の遮断
ここまで、テンポ、タッチ、ペダルについて書きましたが、これらを実行するために絶対に必要な条件があります。
それは、「ホールに響いている自分の音を聴く余裕」です。
本番、多くの人は緊張しています。
心臓がバクバクし、「間違えたくない」「早く終わりたい」という心理状態になると、人間はどうしてもテンポが走ります(ラッシュしてしまいます)。
心が焦ると、演奏は前のめりになり、テンポはどんどん速くなる。
速くなると、残響と音が混ざって濁る。
濁っていることに気づきたいけれど、焦っているから自分の音が耳に入ってこない。
これが、本番で「崩壊」してしまう一番のパターンです。
ホールという空間と対話するために
では、どうすれば良いのでしょうか?
私が心がけているのは、弾き始める前にホールの一番後ろに座っている人を見つめ、
「あの人まで音を届けて、跳ね返ってくる音を聴こう」とイメージすることです。
演奏中も、手元だけでなく、空間全体に意識を広げます。
自分の出した音が、天井に当たり、壁に当たり、ブレンドされて自分の耳に戻ってくる。
その「時差」を楽しむくらいの感覚を持てた時、初めてそのホールの響きを味方につけることができます。
まとめ:残響は「敵」ではなく「パートナー」
響きの良いホールで弾く時に気をつけたいことをまとめます。
- テンポへの配慮: 残響で音が混ざらないよう、音の余韻を聴くゆとりを持つ。
- 明確なタッチ: 鍵盤の底まで意識を通し、音の輪郭をはっきりさせる。
- 耳を使ったペダリング: 練習室の感覚を捨て、その場の響きに合わせてペダルを減らす・浅くする。
- 心の余裕: 焦って走らず、ホールと対話するように自分の音を聴く。
狭い部屋での練習は、あくまで「準備」です。
本番のステージは、その場で生まれる響きと共演する場所です。
ホールの残響という素晴らしいパートナーと手を取り合って、
その時、その場所でしか生まれない音楽を楽しんでみてください。



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